牛子の歴史
「牛子」の名は江戸時代初頭 1618(元和 4 )年頃の記録に「牛子新田村」の記載が見られ、川越藩の支配下にあって新田開発がなされ田園が拡がっていたことが偲ばれます。
1664(寛文 4 )年、川越五河岸のひとつ「牛子河岸」が新河岸川沿いに開かれると、1931(昭和 6 )年に通舟が廃止されるまでの約 270 年間、川越と江戸を結ぶこの流れを日夜発着する数多くの舟が行き来しました。新河岸川はやがて荒川に注ぎ、そして隅田川へと至りますが、この舟運は人や物資を載せて運んだだけではなく、川越と江戸を強く結びつける役目を果たし、江戸の文化を吸収しながら発展を遂げた商都川越は、 「小江戸川越」として江戸の情緒を今に伝えています。
牛子村は、1889(明治 22 )年の町村制施行により近隣 7 村と合併して南古谷村の大字のひとつとなり、その後 1955(昭和 30 )年に南古谷村が川越市に編入されて「牛子」は川越市の大字のひとつとなり、現在に至ります。
牛子の地理と現況
川越市の南東部に位置し、東側に九十川、西側を新河岸川に挟まれた低地が拡がっています。鉄道や民間バス路線は通っていないものの、北部を県道 336 号今福木野目線が東西に貫いており、国道 254 号をはじめ近隣の東武東上線新河岸駅及び JR 川越線南古谷駅ヘのアクセスも容易な地域でることから、近年は農地転用による住宅地も増えています。
牛子の面積は約 0.3453 ㎢ (Google Mapによる測定)で、東京ドーム約 7.3 個分に相当します。周囲長は約 3.8 ㎞と、コンパクトながら野鳥の飛来もみられる自然豊かな地域です。
川越市が公表している令和 6 年 10 月 1 日現在の統計データでは、381 世帯、人口は 886 人となっています。
主要な公共施設として、川越市立牛子小学校(昭和 52 年開校)、川越市立南古谷第 2 保育園(昭和 56 年開園)の二つの学び舎があり、自然の恵み豊かな地域性を活かした教育・保育が行われています。牛子小学校の児童の皆さんには校外学習の場として、また南古谷第 2 保育園の園児の皆さんにはご利用者との触れ合いの場としてご来園頂くこともあり、当施設をご利用頂くご利用者の皆様に喜んで頂いております。
また牛子地域には含まれませんが、当施設の目と鼻の先には埼玉県が管理する九十川排水機場があり、絶えず新河岸川の水位を監視しております。
地名の由来
牛子の地名は
牛子の歴史的資産
牛子稲荷神社と共同墓地
当地には地名の由来に登場する行者が祀った社とされる「牛子稲荷神社」が現存しており、祭神に五穀豊穣を司る 宇迦之御魂命 を祀り、永く牛子の鎮守として敬われ、明治になって村社となっています。
また、牛の子が産まれた場所には行人塚という塚があったとされ、牛子稲荷神社は行人塚の方角を向いて建っていると伝えられています。塚は崩されて牛子集落の共同墓地となっておりますが、今なお当地に残る旧家約 50 軒ほどで管理運営がなされ、墓石に刻まれた江戸時代の元号から、その歴史の深さを感じることが出来ます。
牛子稲荷神社の祭事
年 4 回の祭事が、いまも自治会組織の氏子を主たる担い手として執り行われ、牛子を支えてきた先人たちへの感謝とともに脈々と受け継がれておりますが、近年は次世代継承への懸念が課題として浮かび上がっているようです。
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【3月 初午】
春の農作業の開始を前にして、五穀豊穣や商売繁盛、家内安全などを祈願するもの -
【10月 例大祭】
最も重要な祭典とされており、地域住民などが参進し、神殿に酒や米、海の幸、山の幸などを供えて神様に豊穣と日々の平穏に感謝するもの -
【12月 新穀感謝祭】
収穫された新穀を捧げて感謝するもの -
【1月 元朝祭】
新年を祝い氏子崇敬者と地域の平和と繁栄を祈願するもの
謝辞
当地の歴史については、古文書をはじめとする文献から得られる情報は少ないことから、多くの方々から貴重なお話を伺った内容をもとに作成、公開に至ることができました。機会とご協力を賜りました皆様にこの場を借りて深く感謝申し上げます。
当法人は、歴史あるここ牛子の地で、地域の皆様と共に歩みを進めて参ります。
ご協力賜った方々・公共機関など
ご協力を賜りました皆様をご紹介させて頂きます。(五十音順)
- 牛子自治会 様
- 川越市立牛子小学校 様
- 川越市立博物館 様
- 川越市立南古谷第 2 保育園 様
- ほっかほっかクラブ 様
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